髙橋 徹さん [シェフ](40代男性) 髙橋 徹さん [シェフ](40代男性)

髙橋 徹さん [シェフ](40代男性)

千葉県千葉市出身。短大卒業後、単身アメリカに渡り語学や文化を学ぶ。その際、将来の夢となる「飲食業」と出会う。現在は、八千代緑が丘駅そばの「Café nocturne」にて、シェフとして感動の料理を提供している。

閉店までに、奥さんを連れて行ってあげたいですね。

スッとした立ち姿と、堂々とした語り口が素敵な印象の髙橋さん。奥様は、ウクライナ出身で、現在同じカフェで髙橋さんのことを支えていらっしゃいます。千葉市出身ということで、千葉パルコは本当に身近な存在だったと語る髙橋さん。お客さんとして訪れただけではなく、千葉パルコの伝説のあのビアガーデンで勤めていた経験もあるとか。

「オシャレ過ぎるんじゃないの?」くらいの奇抜な服を買うことが多かったですね。

「僕は千葉市の出身ですが、3歳で袖ケ浦市へ引っ越しました。それでも、父の実家が千葉市なので千葉パルコにはよく行っていました。初めて行ったのは、小学生の時ですね。千葉市といえば千葉パルコじゃないですか。だから、成長するにつれて友達なんかとも『千葉パルコ行こうぜ!』って。頻繁に行っていたのは、高校を卒業してから。服を買いに行くのが一番多かったですね。服が大好きだから。結構奇抜な服を買うことが多かったですね。『ちょっとオシャレ過ぎるんじゃないの?』くらいの。モード系とか。DCブランドブームでしたしね。特にどのブランドが好き、とかはないですけど、お店の中をグルグル回って、気に入ったものを買うっていうパターンでした」

インタビューの時は、コック服を着ていた髙橋さんですが、聞けばコック服はオリジナルデザインとのこと。スッとした立ち居振る舞いも相まって、とってもオシャレな印象を受けます。そんな髙橋さんのオシャレの原点は、当時DCブランドブームに沸いた千葉パルコの“ちょっとオシャレ過ぎるんじゃないの?”くらいのファッション。今でも洋服が大好きという髙橋さんのアイデンティティを形成したのは千葉パルコだったんですね。

顔中が絆創膏だらけの人とかいましたね。

「短大を卒業してからアメリカに渡って、『飲食やろう!』ってなって、それから日本に戻って来て、僕が横浜にいる時に勤めた会社が、夏になるとバドワイザーカーニバルを千葉パルコの屋上で展開してたんですよ。僕は2シーズン携わったんです。30代の時ですね。毎日めちゃくちゃ忙しかったですよ! サラリーマンから、OLから、たくさん人が来て……。だから、千葉パルコといえばバドワイザーカーニバルってイメージになっちゃって。酔っ払いには絡まれるし(笑)。燻製玉子を頼むと、おデコでバドガールがそれを割ってくれて、最後に絆創膏を貼る、っていうのがあったんですけど、顔中が絆創膏だらけの人とかいましたね。こちらとしてはありがとうございますなんだけど、『あなたいくつ頼んだの!?』っていう(笑)」

ついに来ました。待っていたんです。こういう神がかり的なエピソード。そう、千葉パルコを語るとき、ある一定の世代の方々から口々に語られる伝説の存在、「バドワイザーカーニバル」。バドガールたちが、ビールを運び、おデコで燻製玉子を割り……、千葉の疲れたサラリーマンたちのオアシスとして君臨した、絶対的なビアガーデンです。髙橋さん、まさかそこにお勤めだったとは、驚きの一言です。

千葉にパルコがある、ってこと自体が、千葉の人の誇りだった。

「バドワイザーカーニバルで働いていた時代は本当に楽しかったです。アメリカにいる時に飲食やろう、って決めて、日本に戻ってきてから色々な仕事をしていた中での思い出なので、印象深いですよ。最初に千葉パルコ閉店のニュースを聞いた時は、『エーーッ!?』って思いましたよ。やっぱり、歴史とともに一緒に歩いたデパートがなくなるっていうのは寂しいですよね。だって、自分の思い出だから。みんなそう思ってるんじゃないかな。千葉にパルコがある、ってこと自体が、千葉の人の誇りだったりする部分もあるし……。閉店までに千葉パルコに行くとしたら、屋上に行ってみたいですね(笑)。あと、奥さんはまだ行ったことがないから、奥さんを連れて行ってあげたいですね」

ウクライナ出身の奥様と、仲睦まじくカフェで料理の腕をふるう髙橋さん。そして、それを支える奥様。閉店までに、奥様を連れて行ってあげたいという、なんとも髙橋さんらしいコメントをいただきました。千葉にパルコがあること自体が千葉の人の誇り、という髙橋さんの思い出がたくさん詰まった千葉パルコに、初めて行く奥様と、一生忘れられないほどの、素敵な思い出を作ってくださいね。