野口 由布子さん [カフェ経営](40代)

千葉市中央区で長年愛されてきたカフェ「呂久呂」を親子で経営。千葉市中心市街地でのイベント「アースデイマーケットちば」の発起人であり、その他にも「青空ワインバル」などの人気イベントの運営に大きく関わっている。

千葉パルコはこのエリアの中央であり、“街の仲間”なんです。

輝くような笑顔が魅力的な野口さんは、千葉パルコの近くでカフェを経営されています。千葉パルコは日々の買い物をする場所であるのはもちろんのこと、同じ商店街の仲間として商店街のイベントなどでコラボすることも多いとか。パルコは憧れのファッションがある場所でもあり、仕事仲間でもあり、街のご近所さんでもあるという野口さんにとって、千葉パルコとはどんな存在なのでしょうか。

千葉パルコとは、手ぶらで来られるような関係です。

「実は今日、手ぶらできてしまったんです(笑)。でも、それくらい地元でご近所なんですよ。ここから50メートルくらい先にずっと住んでいるので、もうパジャマで来るような感覚で、特別なことじゃないんですよ。パルコの方とお仕事をすることもありますが、つい何も持たずに来てしまって「忘れ物しちゃったので戻ります」って、また空いた時間に来たりします。だから、パルコがなくなるというのは、ご近所さんがいなくなるような感じがあって寂しいですね」

生まれた時からずっと千葉パルコの近くに住んでいるという野口さん。千葉パルコにはもう数切れないほど足を運んでいるとは思いますが、特に記憶に残っている思い出はありますか?

東京に行かなくても、ハイブランドが買える場所だった。

「私、1970 年生まれなので6歳の時に千葉パルコができたんですよね。オープンした時、地下に回転寿司があったんですよ。そこに祖母に連れて来てもらって、『お寿司が回ってる!』って衝撃を受けたのが最初のパルコの記憶ですね。中学生になって初めて自分の服を買ったのもパルコだし、茶道をやっているので、かつて入っていた鈴乃屋さんで着物を買ったこともあります。バブル全盛期の頃に、ツインビルの1階が千葉パルコになった時がありますよね。その時私は高校生か大学生くらいで、東京の私立の学校に行っていたんです。当時の東京の私立高校生はすごかったですよ。高校生でシャネルスーツを着てシャネルバッグを持つのが普通だったんですよね。だから、ツインビルに入っていたハイブランドのショップはぴったりだったんですよ。たくさん買ったよね(笑)。東京に行かなくてもハイブランドのファッションが買えるっていうのがすごくよかったんですよね」

千葉パルコの開業当時、地下にあったという回転寿司屋さん。当時は、まだ千葉パルコの周囲には回転寿司屋さんは珍しく、野口さんが驚きを持って回転寿司屋さんを利用したことは想像に難くありません。

千葉パルコで働いている人は、“街の仲間”という意識があります。

「私がやっているカフェと千葉パルコは、千葉銀座商店街の組合に入っているんですよ。なので、商店街で街の活性化の取り組みをしたり、イベントやお祭りをしたりと、千葉パルコと一緒に色々なことをさせていただいています。千葉パルコと一緒にこういう取り組みをするようになったきっかけがあって、うちのお客さんに『パルコの主』と言われている方がいらっしゃるんですよ。その方が、『呂久呂さんに言いなさいよ』ってパルコの人に言ってくれて、企画の方がうちに来てくれたのが始まりなんですよね。だから、千葉パルコで働いている方は、お客さんでもあり“街の仲間”という意識もあります。この間『ちーバル』というグルメイベントがあって、このエリアの飲食店の仲間と一緒に色々やったんですけど、その一環でマップを作ったんですよね。そして飲食店以外の店もピックアップしようってなった時に『やっぱり中心はパルコだろう』という意見でまとまったんですよ。結果として蓮池中央くんというゆるキャラがこのエリアを回って、その中央には千葉パルコがあるというマップを作りました。パルコ側も、パルコだけに集客をするのは限界があるじゃないですか。パルコに集客するというのは、千葉銀座商店街に集客することにもなるし、うちの商店街に来てくれたお客さんがパルコに行くっていうことにもなる。うちの商店街と千葉パルコがここまで仲がいいのは、やはり40年という歴史があるからでしょうね。時間の積み重ねって大きいんだなぁって、改めて感じます」

野口さんのお話から、千葉パルコが周辺の商店街と特別な友好関係を築いていることが分かりました。よく、大型店舗と周辺の商店街が対立しているという話を聞くことが多いなかで、ここまで地元の商店街と密接に関わっているというのも珍しいのではないでしょうか。地元の人に愛される大型ショピングセンターとして存在し続けた千葉パルコ。閉店までにもっともっと、千葉が盛り上がるといいですね。